コラム

音の無い世界は存在するのだろうか

アメリカの前衛作曲家、ジョン・ケージの「4分33秒」という奇妙なタイトルの作品を、実際に聴かれたという経験がおありだろうか。
譜面には、音符らしきものが何ひとつ記されていないのだが、しかし奏者はその楽譜を携えて舞台に登場し、それをおもむろに譜面台へ置くと、4分33秒の間ひたすら「音を出さないで」じっとして、そして舞台から退場してゆくという、何ともエキセントリックなスタイルの作品である。
では、この時に聴衆は、音楽として何を聴くのか。
それは、主に会場内の人々のざわめきであるが、これは聴くではなく、きっと聴こえてくると言った方が近いのではないかと思う。
私自身は、実際にポリーニのリサイタルのアンコールで弾かれた際に、初めてこの作品に触れる事となったのだが、幸運にも天才ピアニスト、ポリーニの名演(?)によってである。

鈴木大拙に禅を学び、東洋思想に傾倒したケージは、「あるがままを受け容れる」という哲学について、次第に共感を覚える様になった。
彼は、無響室(外部からの雑音が遮断され、音の反射が全くない部屋)に入っても、なお高い音や低い音が何処からか聴こえてくるという体験をした後に、一体この現象は何故起こるのかと尋ねた所、エンジニアから「それは自身の体における神経系と血流から生じる音が聴こえるからだ」と説明されたと言う。
ケージは「無音の不可能性」というものについて、この様な自らの経験から悟った。
人は、あらゆる手段をもって完全に音から身を避けたいと願っても、生きている限り音の無い世界に存在するという事は不可能であると、この時に知ったのであった。

欧米の音楽家は、武満徹の作品について、フレーズの最後の音が衰弱して消えゆく響きの中に、そして音のない休符そのものに、彼の言いたい事が詰まっているのだ、という表現をよくする。
私は日本人であるから、その消え入る音や無音に込められた何かしらの意味を感じ取るよりも、むしろその音の消失する瞬間を愛おしみ、また弱音から無音になるそのかけがえのないひとときを享受すべきもの、音と戯れそして無を迎え入れる瞬間であると考えたいと思う。

アーティストが作品の演奏を行い、聴衆に聴かせるという既存のスタイルから遠く離れて、聴衆が主体となり、「今この空間で何処からか音が聴こえてくる」という分かち合いの体験が、4分33秒という長さより、遥か悠久の時である様に感じられるのは、きっと私だけではないだろう。
5分にも満たない、たった数分という時間が、ケージによって深淵な、哲学的メッセージを放つ無限のひとときとなる。









2018.04.23 23:15

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