コラム

考える力の真価について

「人間は考える葦である」とは、言わずと知れたフランスの哲学者のパスカルの言葉です。宇宙から見れば人は大変小さき存在でありながら、頭を使って考える事ができ、それこそが人に与えられた偉大な力である、と彼は述べました。人の尊厳はその思考の中にあるという訳です。
その考えるという行為は、我々の様な高等動物に与えられた能力ではありますが、しかしながら、それは決して幸せだけを生むものではないという事実に、誰しもが気付いている事でしょう。
何故なら、思考できない犬や猫の方が、遥かに人間よりも幸福を感じながら生きている様に思える時もあるからです。私は、パリのロダン美術館の「考える人」を鑑賞する度に、あの前傾姿勢の彫刻を見ながら、結局、人は何のために考えるという行いをしているのだろうか、といつも問うています。

人は考える際に、過去と未来について意識が向く傾向が強くあり、それによってあまり幸福を感じられない感情、つまり不安や心配、苦悩が生じてくるとされています。そこでは、現在というものに意識が置かれていないのです。
昨今よく聞かれるマインドフルネスですが、現在、今ここに起きている事、起きている経験に意識をフォーカスし、それをただ受け止める様にする心の状態を表します。受け止める際に、何か評価やジャッジをせずに、現実をありのままに受け入れるという、心理的なプロセスです。
この瞑想を行う事で、自己理解が高まったり、集中力が向上したリ、多くのメリットがある訳ですが、実践してみると、なかなか難しいものでして、今、この瞬間に意識を向けるという事が、数十分でも容易ではない様に、私には感じられました。

また、過去には、多くの著書を上梓されている高名な僧侶のご指導による、座禅の体験会にも参加させて頂いた事がありますが、こちらはマインドフルネスより更に難しさを極めるものでした。
目を閉じて、考えるという事をせず、頭の中を無にして、自分自身と向き合うというのが座禅です。
私の様に、朝目覚めてから夜眠りにつくまで、大半は些末な事柄ですが、何かしらを考えている様な者は、何も考えずにただそこに居るという事が、まさしく呼吸をせずにその場に居なさい、と言われているに等しい感覚を覚えました。実際に「考えない」をトライしてみると、ただ1分を過ぎた所で、もう既に何か考え始めようとする自身の脳が存在するのだとわかりました。
しかし、一度座禅を経験してみると、全ての瞬間において、人は個々の考えに囚われながら生きているのだろうという事が、少しだけ理解できた気がしました。高等動物にのみ与えられた試練とでも言うべきものでしょうか。

さて、「考える」について考えてみましたが、思考が可能である事で、望ましいとは言えない或る種の不利益が生じる一方で、いささかAIに頼ろうとし過ぎているのではないかとも言える現代では、人の思考力が低下したり、或いは思考放棄が生じる危険性を常にはらんでおり、これからの未来に、考える葦が単なる葦になってしまわぬ様、我々一人ひとりが、考える能力を持つ事の真価について、改めて問う必要があると思われます。

2025.04.15 23:45

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