コラム

ポストカード(絵葉書)の表と裏について思う事

演奏や指導の仕事で、初めての地を訪れる機会がありますと、現代にはいささか古風な趣味になるのかもしれませんが、街でふと立ち寄ったお店でポストカードを見つけて家に帰る事が、ささやかな楽しみのひとつとなっています。

国外では、ちょっとしたセンスを感じられるものや、色使いやデザインも洒落たものが手に入りますが、そのままフォトスタンドに入れて部屋に飾れば、ミニオブジェとして、旅の思い出と共にいつまでも楽しむ事が出来ます。
とりたててコレクションをしているという訳ではないのですが、偶然にも絵葉書のプレゼントを頂く事が、実は少なくありません。
めずらしい観光地のものから、自ら撮影された写真を使って手作りして下さったもの、またカードの絵と(貼付してある)切手が同じデザインになっている、粋でアーティスティックなものを頂いた事もあります。
もちろんそれらは、まっさらな新しい葉書で、絵の裏に書かれた文字はありません。
ですから、今度は私の方から、そこにメッセージを書いて、カードを頂戴したその方か、或いは別の方に差し上げるという、ささやかな感謝の表し方があるのでしょう。
その様にして、人とのつながりを強く感じられる物は、とても素敵な贈り物だと、いつも心から感じます。

便箋に綴る手紙の様に、“何枚でも、お気に召すまま”、というものではなく、葉書にはスペースに限りがありますから、より言葉を吟味して気持ちを伝えなければならないという、葉書自体が洗練されたスピーカー(伝達者)の様な役割も持っており、当然ながら書く側のセンスも問われます。

今や、コミュニケーション・ツールの主流はメールとなり、手書きの文字でやり取りをする機会の必要性が、残念ながら失われつつある時代となりました。
パソコンの様に、誰が打っても同じ形になる文字は、一言で味気ないものです。
達筆ではなくとも、一字一字心を込めて書くという作業自体に大きな意味があるのでしょうし、また手書きの文字を見て、その相手を考えるというひとときが生まれますから、それだけで価値があるものの様に思います。

さて、手紙でいつも思い起こすのは、ロベルトとクララ・シューマンの書簡集です。
喜怒哀楽を超え、更に深い人間の感情をあらゆる言葉を駆使して「痛み」と共に綴った、まさに心の奥底からの叫びの記録は、シューマン夫妻の残した音楽作品に比肩する、ひとつの芸術作品とでも呼べるのではないでしょうか。
彼らも、まさかこうしてお互いの赤裸々な告白が、後世に人々の目に晒されるとは、想像だにしなかった事でしょう。
二人の手紙を読むにつけ、人が抱く心の痛み、ひいては魂の痛みは、こうして数百年時を経ても、また何処の国の者であっても、或る意味で普遍的で、変わらないものではないかと感じています。

「心の叫び」は、全くもって葉書ごときのスペースに書き納められるものではありませんが…
実は、少ない言葉の中にも、凝縮されるだけに、抱く感情の深さを表現する事は可能なのではないかしらと、最近では拙い文をしたためながら、葉書の生み出す価値について再考しております。



2017.10.30 23:20

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